前回からの続き。UPDATE. 2007.7.03
前回までのあらすじ。
(いらんいらん、まったく最近のTVみたいなことして。引っ張り過ぎっちゅうの。)
そのお客様の言葉はこうだ。
「ナビってね、みんな同じ基準(優先順位)で道を選択するようになっている。だから休日ともなるとみんなナビに誘導されて、久住高原なんかがある交差点で異常に込んだりするでしょ。地図を見ると他にもルートあるのに。少し遠回りや狭い道でも自分で探しながら景色を見ながら行くのはワクワクするよね。私はバイク用の地図を利用しているんですよ。あれ、細かい道まで載ってていいよ。云々」
なーるほど、そう言われれば去年のGW、阿蘇に向かう際、メインの国道に出る前にえらい渋滞していて、「これ、まともに待ってたらあと20~30分かかるなあ~。よーし、この細い道に入って行ってみよう!」(家族の不安を背中に感じながら、少々ビビりながら突入)
ところが、道はけっこう狭く、途中1回判断に迷う分かれ道もあったが、「うーん、ヨシッ、こっち。」するとものの3分ぐらいでメインの国道に出てしまった。
「ウーン。やるじゃないの、オレ。」(背中で父の偉大さを家族へアピール)
『小さい。小さい。』
人はできるだけ楽をして・・・・(これ本能ですから、もちろん私も)
でも、みんなが『同じ基準の便利さ』にいつの間にか慣れて、それに必要以上に依存してしまうと何か恐い気がする。
私達はコンピューターなんか問題にならない程の感じる力(高度情報処理能力)を持っている。
車を運転して目的地に着くということは、恐ろしい程五感を駆使しての情報処理能力がないとできないことではないだろうか。
便利な物を使うと、反面今まで使っていた生き物としての感性(五感)、そしてその反応を鈍らせる可能性もあることを忘れないでいたい。
ナビを使って最短ルートで目的地付近まで行くが、皆が集中して渋滞。
地図を見ながら、まわりの景色や風、匂い、音、光etcを感じながら遅れをとったが、それまでの経験(失敗も含む)で培ったいわゆる『勘』で、渋滞にイライラしながらしかめっ面の人たちを横目にスルスルっと抜けて行ってしまう。
『筋力』も『感じる力』も『考える力』も「反応する力』も使わないと無くなってしまう。
使っている時はちょっとしんどかったりするが、使えば使う程研ぎ澄まされていく。
人間の底知れぬ能力を眠らせないでいたいものです。
何者かに言われて動くのではなく、自ら感じて動くことの大切さ。
小さな変化から先を予測し反応するスピード感。
『使わないと無くなる。』
逆に言うと、今持ってるものを無くさない為にも、『使う』という環境と習慣を意識したいものです。
眠り屋 店主